鈴虫
僕が都会を離れ
一人部屋を借りた時の話だ
秋になる一歩前で
夏の日差しは時間帯を選ぶ様に
差している
夜は既に肌寒い
外からは鈴虫の鳴き声が聞こえてくる
一度だけ
部屋の中に鈴虫が入ってきた事があった
僕は気づかなかったんだ
それは
ある程度間を置きながら
リンリンリンと3回ほど聞こえる
あまりに近い所から
聴こえてくる
音だったものだから
鈴虫だなんて思いもしない
部屋の中で鈴虫が鳴くって
滅多にない事だもの
それが
鈴虫だって分かった時
僕は
無性に胸が苦しくなって
狂ったように探し始めていた
それが
鳴けば鳴くほど
僕を
駆り立てた
探せば探すほど
僕を焦らせた
僕は泣いてしまいそうになった
外を知らないんじゃないか
仲間たちの声は聞こえているんだろうか
おかしな話だよね
僕は泣きだしていたんだ
何の涙なんだろう
何の涙のつもりだろう
僕の中に在ったものは
懐かしさだったり
微かな喜びだったり
足元を揺るがせるほど
僕を
崩れさせた悲しみだったり
鈴虫が僕を泣かせたのか
それとも
鈴虫の鳴き声が
僕の涙を誘ったのか
鈴虫に対する感情が
僕を飲み込んだのか
ただ悪戯に
感情に弄ばれたのか
それは分からない
涙って
溜め込むものとして
設置されてはいない
本当は
流れ出るものだから
溜まっているならば
流れて良いと
降りる許可を
ずっとずっと
待っているのかもしれないね
きっかけはいくらでも
転がっているのだと思う
そのきっかけを
拾ってしまうかしまわないか
見ない振りして
やり過ごすか
その違いだと思うんだ
この時流れた
僕の涙は
過ぎ去った日々に落とし損ねた
ものだった気がする
だってね
真新しい感じは
ちっとも
しなかったもの
僕は一つ
呼吸を整えた
頭の中を駆け巡る記憶は
今
僕の
目の前で
繰り広げられているみたいに映る
死んだように横たわっていたものが
あたかも
ずっと生き続けていたかのような
振りを
彩度と鮮やかさを持って
蘇らせたみたいだ
僕が五歳の時のことだ
金木犀が咲き始めた頃の事
橙色した花は
まるで
宇宙から流れ
辿り着いて咲いた
星の粒みたいに見える
この花の
香りを僕は大好きだった
この香りをずっと
取っておくことは出来ないものか
考えた
金木犀の香りって
知りもしない
昔を感じさせてくれる
幼い僕でさえ
身体のどこかにしまい込んである
懐かしい記憶というものの存在に
気づかされたものだ
懐かしさは
今を遠のかせる
僕は
懐かしさに身を置く事が大好きだった
今という時には無い
遠のいたという
時
少しばかり大人になってしまうと
漠然と
感覚の中で
感じる事を許されていたことが
当然の様な
言葉でくくられてしまう
だから
僕は
こんな話は誰にもしやしない
話をしたところで
もし仮に
誰かが巧みな言葉を使って
僕の感覚を
まとめ上げてしまったら
僕は
僕の持つ
全ての感覚を
閉じてしまうだろう
金木犀の香りを閉じ込める
僕は
小瓶に花を詰め
水を入れた
香水のつもりだったんだ
小瓶は鮮やかな
橙色になった
香りも薄く残った
それを見て
僕は嬉しかった
空中にまいて
香りを感じて
これで冬も春も夏も
好きな時に
この香りを感じられる
だけど
半日も経てば
小瓶の中に居た
鮮やかな橙色は茶色になった
それと同時に
溢れた僕の喜びは
茶色く
錆びついた
それを眺めながら
僕は
思ったんだ
花は確実に生きていた
そして
今しがた
死んだんだって
目の前で見た
生と死の移り変わり
それに確実に関わった自分の存在
流れているものを
無理矢理にとどめる事は出来ないと
知ったんだ
鈴虫は鳴いていた
僕は耳を傾け再び探した
玄関に置かれた靴に目が留まった
そこには
羽根を震わせる
小さな鈴虫がいた
僕はそっと近づいて
手のひらにそれをおさめた
震わせえた羽根が
止まる
大丈夫
怖くないよ
扉を開けて外へ
皆が歌っている所へと置いた
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